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特養入所事例 母性愛に生きた人

母性愛に生きた人 えっちゃんのブログ
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中山八重子さん(仮名)のベッド周りには長男の前田真一さん(仮名)次男の前田啓二さん(仮名)長女のみよさん(仮名)次女のしのさん(仮名)三男の前田吾郎さん(仮名)5人の子供たちに囲まれて幸せな時間を過ごしていた。

この時が八重子さんと過ごす最後の時間となろうとは5人の誰もが想像すらしませんでした。

薔薇のライン

大平洋戦争下、空襲が現実味を帯びてくると、児童を空襲から守るため、親戚を頼っていた児童の地方への疎開を学校単位で集団疎開させるため、多くの学校で学童疎開が行われました。
前田家も例外ではありません。

しかし、前田家には、真一さんはじめ5人の子供達がおり、父親(前田末吉)は国民学校の教員をしていました。父親である末吉さんは、子供達だけでなく、学童集団疎開の引率をしなければなりませんでした。

末吉さんの妻であり5人の子供たちの母親は、三男の吾郎さんを出産すると間もなく亡くなってしまったのです。
そこで、お手伝いさんとして、前田家に奉公したのが中山八重子さん(当時16歳)でした。

16歳の八重子さんは、前田末吉さんと一緒に五人の子供たちを疎開させます。
八重子さんは、乳飲み子を背負い、両手に手荷物を持ち、疎開したと言います。
集団疎開した時の教員は、多忙を極め、家庭内のことは全て八重子さんが行っていたと言います。

家政婦さん

1945年終戦となり、地元に戻りますが、前田家の生活は変わりませんでした。
前田末吉さんは小学校の教員となり、八重子さんは前田家の家事を行いながら5人の子供たちを育てました。

末吉さんと八重子さんは生涯、主と使用人の関係は維持され、末吉さんは幼かったしのさんや吾郎さんに、物心付いた頃から八重子さんと呼ばせ、八重子さんと母親は別であることを教えたと言います。

しかし、八重子さんに対する感謝の気持ちは持つように常に教育していたと言います。

そんな八重子さんにも、縁談の話もあったようですが、前田家の幼い子供たちを残して嫁ぐことは出来ず、子供たちが自立するまで家政婦という形で前田家に残りました。

子供たちが5人とも自立し、末吉さんが定年退職を迎え5年経過したころ、末吉さんに肺癌が見つかります。

入院したおじいちゃん

末吉さんは、5人の子供たちを集めて、自分が亡くなった後の話をしたと言います。

1、八重子さんは今の家に継続して住まわせること。
2、八重子さんの老後の生活は5人でみるように。
3、遺族年金は、内縁の妻として中山八重子さんが受給できるように手続きすること。
以上が末吉さんが子供たちに残した遺言でした。

八重子さんは、末吉さんが69歳で亡くなるまで献身的に看病しました。
末吉さんの遺言通り、遺族年金も受給出来ました。
その後も、前田家に残り、末吉さんの子供達からは、おばあちゃんと呼ばれ、孫たちの世話もしたと言います。

八重子さんも88歳。米寿を迎えたころ、脳梗塞を患い入院治療したものの、左半身麻痺が残ってしまいました。その後、老人保健施設に入所し、一生懸命リハビリに励みましたが、住み慣れた家に戻ることは出来ませんでした。
家も古く、88歳という年齢での独居生活は難しく、相談の結果、特別養護老人ホームに入所することになったのです。

入所後も、5人の子供たちが休日の度にかわるがわる面会に来ました。
特別養護老人ホームに入所して10年が経過したころ、食事摂取量が減ってきました。
病院での検査等でも異常がなく、嘱託医からは、老衰だと説明がありました。

食事介助を受けるおばあちゃん

食事摂取量が徐々に減少し、全身浮腫を認めたため、今後の方向性についてのご家族の確認を行ったところ、子供たちの意向は下記の通りでした。
①食事摂取量が低下し、全身状態の悪化は十分理解している。98歳と高齢になっており、病院での積極的な治療は、家族全員(子供・孫)望んでいない。
②病院での治療の可能性についても説明を受け理解している。
③施設内医療処置の限界や終末期における援助方法についても説明を受け理解しており、施設内での看取りをお願いしたい。
とのことで、施設での看取り(ターミナルケア)を行うことにしました。

看護職員は、常に観察を行い、進行する症状の把握に努め、できる限り苦痛の緩和に努め、介護職員は心身の苦痛の緩和に努めるとともに、残された時間を充実させ、安らかな死を迎えられるような援助に努めました。また、管理栄養士は、できる限りの栄養補給ができるような食事形態や高カロリーな食事提供に努めました。

食事がなかなか喉を通らなくなり、死期が近づいてきた旨を伝えたところ、夕方になり5人の子供たちが集まり、八重子さんの面会にやってきました。

食事が提供されるも、なかなか食べられないでいるときの面会でした。
介護職員から食事介助を頼まれた私は、家族の前で食事介助を行いました。
家族の面会があったからなのか、予想以上に食事を食べることが出来たのです。

八重子さんは、子供達ひとり一人の手を握りながら、最後の力を振り絞るように、「ありがとう・・・ありがとう・・・・」と言い続けました。
その状況に家族も安心したのか、「また明日逢いに来るからね・・・。」と言って帰宅されました。

深夜1時過ぎ、私の携帯電話が鳴りました。
「中山八重子さんが呼吸していません」と・・・。
急いで施設に出向き、八重子さんの死亡を確認しました。

天国のイメージ

八重子さん99歳の誕生日でした。

施設に子供達が集まってきました。
末娘が、実母でないにもかかわらず「お母さん・・・。」と泣き崩れました。

長男が、「八重子さんがいなかっらた私たちは死んでいたかもしれないんです。
八重子さんに助けられて、八重子さんに育てられた私たちは幸せでした。
最後に、この施設で看取られ、最後にお別れが出来たことを幸せに思います。」・・・と。

八重子さんは、末吉さんと過ごした家に戻りました。
16歳で前田家に奉公して、99歳で亡くなるまで、八重子さんは、無償の愛を前田家に捧げました。
八重子さん自身の事は全く口にせず、いつも話してくれたのは八重子さんが育てた子供たちの事ばかりでした。

八重子さんが自分自身の人生を幸せだったとおっしゃっていたのを今でも忘れることができません。

 

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